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東松山市立図書館

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田口弘文庫「高村光太郎資料コーナー」

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平成28年6月に元教育長の田口弘氏より、日本を代表する詩人・芸術家である高村光太郎氏の直筆の書簡や書、色紙など貴重な資料の寄贈がありました。その際に田口氏より「資料は図書館で管理し、市民の方、特に若い方たちにも見てもらいたい」とのお話があり、図書館内に常設展示コーナーの設置が計画され、平成30年1月に高村光太郎氏の直筆の書や書簡の展示を中心とした常設展示コーナーが完成いたしました。その間、平成29年2月に田口弘氏がご逝去されましたが、ご遺族により、ご自宅に残されていた多数の蔵書も寄贈されました。
今後、田口氏より寄贈された蔵書の整理をすすめ、高村光太郎関連の研究資料コーナーとしての充実を図っていく予定です。

田口弘氏について

1922年(大正11年)東松山市に生まれる。松山中学校を経て、東京府大泉師範専攻科卒業。1946年(昭和21年)から1972年(昭和47年)まで松山中学校教諭。1976年(昭和51年)より東松山市教育長を16年半務める。その間、日本スリーデーマーチの東松山市開催や、東武東上線高坂駅前に彫刻家・高田博厚の作品32点が並ぶ高坂彫刻プロムナード【高田博厚彫刻群】の建設に携わる。学生時代より、恩師の影響で高村光太郎に傾倒し、戦中から戦後にかけて高村光太郎を訪ねたり、書簡を交換するなど、交流を重ねた。その経験から生涯、高村光太郎を敬愛し、研究を続けた。2017年(平成29年)逝去。

高村光太郎について

1883年(明治16年)生まれ。詩人、彫刻家。彫刻家・高村光雲の長男として生まれる。大正3年、口語自由詩の詩集「道程」を刊行。1941(昭和16年)妻・智恵子との愛の生活をうたった詩集「智恵子抄」を発表。戦後は戦争協力の責任を感じ、岩手県太田村の山小屋にこもり自炊生活をした。アトリエの庭に連翹(れんぎょう)の花が咲いていたことから、命日である4月2日には東京と花巻で「連翹忌(れんぎょうき)」が営まれている。

高田博厚と高坂彫刻プロムナード【高田博厚彫刻群】

彫刻家、高田博厚は高村光太郎と親交もあり、田口弘氏と出会ったことから東松山市で彫刻展・講演会を開催するなど縁を深め、現在、市内高坂駅西口に高坂彫刻プロムナード【高田博厚彫刻群】32体が設置されている。その中には、高村光太郎の胸像も含まれている。

(東松山市のホームページへリンク)

高村光太郎 直筆資料

「ロマ書」 (昭和24年)

聖書の中にあるロマ書から選んだ章句。田口の長男誕生3日後に書簡と共に届いた。

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「世界はうつくし」・「うつくしきもの満つ」(昭和21年)

昭和19年、田口が出征する直前に東京の駒込林町のアトリエを訪問した際に書いてもらったものと同じ言葉を、戦後、花巻を訪問したときに同じ言葉をかいてもらった。最初のものは、戦地で海に沈み失われた。

「太田村山口山の…」(筆年不明)

いつ書かれたものなのか書簡等では判断できないが、高村が世話になった人たちに贈った色紙に同じ句のものがある。

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書簡

ktakamura6.png田口と高村、2人の交流の様子がうかがえるハガキ八通、封書二通。

資料名日付投函内容
ハガキ 昭和22年(1947)2月10日 岩手大田村 「ジャワ詩抄」山口部落
(ヤマグチカンポン)
ハガキ 昭和24年(1949)2月2日 岩手大田村 小包の礼
封書 昭和24年(1949)3月6日 岩手大田村 ロマ書同封
ハガキ 昭和24年(1949)3月18日 岩手大田村 長男誕生の祝い
封書 昭和25年(1950)2月14日 岩手大田村 短靴の礼
ハガキ 昭和25年(1950)6月14日 岩手大田村 「風土」
ハガキ 昭和26年(1951)3月14日 岩手大田村 小包の礼
ハガキ 昭和26年(1951)9月28日 岩手大田村 「高村光太郎選集」謹呈
ハガキ 昭和26年(1951)12月15日 岩手大田村 小包の礼
ハガキ 昭和28年(1953)1月22日 中野アトリエ 仕事に没頭

荷札・小包包装紙

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「高村光太郎選集」の出版にあたり、田口が資料提供した御礼として、高村は全7巻が1冊ずつ刊行されるたびに自ら署名し、梱包して田口のもとへ贈った。田口は、その時の荷札と小包の包装紙まできちんと保管していた。

新宿小記念碑「正直親切」

市内新明小には高村光太郎の揮毫した「正直親切」の文字が刻まれた記念碑が設置されている。「正直親切」は高村が蟄居生活を送っていた大田村の山口小学校へ送った書もとにしている。

書簡文面

(「 高村光太郎全集15巻」筑摩書房 昭和33年発行による。初めの数字は、全集で使用されている書簡文の通し番号。漢字は一部当用漢字に改めたものもあります。)

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昭和二十三年二月十日 埼玉縣武州松山町 田口弘様 太田村山口より はがき
今日は此辺の旧正月元旦です。おだやかないい日和になりさうです。雪が美しく光ってゐます。今朝は去年八月二十三日に貴下からいただいた練乳の罐をあけ、あの大きい湯呑に紅茶をおいしくいれてのみました。久しぶりの味です。そして貴下を遠く偲びました。今どうして居られるのでせう。「ジャワ詩抄」は今も小生の机上にあります。二月十日山口部落(ヤマグチカンポン)にて、

1534

昭和二十四年二月二日 埼玉縣武州松山町 田口弘様 太田村山口より はがき
御蕙送の小包無事到着、御無沙汰に打過ぎてゐましたのに忝く恐縮に存じました。松山名物といふ紫蘇巻は昔の味そのままにて祖父のゐた頃を思ひ出して賞味いたして居ります。今年は此の山間の地も雪少く寒気弱く、めづらしいあたたかな正月を送りました。越冬にはらくですが少々気味わろくも思はれます。山々の雪の稜線ももう春らしい色をしてきました。小生無事。

1545

昭和二十四年三月六日夜 埼玉縣武州松山町 田口弘様 揮毫在中 太田村山口より 書留封書
いつぞやはお心にかけられた御贈物をいただいてたのしく冬籠りして居りました。今冬は此の山の中でも割にあたたかで雪も少なく、小春日和のやうな日がつづきましたが最近になって却って寒さが加はり猛吹雪なども時々襲ってまゐりす。二三日前御惠贈の罐づめの一つをあけましたら練乳なのに驚きました。この前にもいただきましたがかかる乳製品の貴重なものを老人がいただくのは世の嬰兒達に相濟まぬ氣がいたしましたが、乳類は小生性来の愛好物とて珍重この上なく、紅茶にいれたり、うすめて朝ののみものにしたり、パンをつくったりしてよろこんで居ります。あつく御禮申し上げます。先年いただいた大湯呑も健在にて、これにて乳をいただいてゐます。何か御禮をと思ひますが御存じの通りの生活とてどうしやうもなく、昨日の土曜に讀みましたロマ書の中の感激に滿ちた章句の中から短い句を今日書きましたので、甚だぶしつけながら同封いたします。いまパウロの事をまざまざとおもひ、考えてまことにつよい反省に心が裸にされたやうに感じて居ります。小生は美の使徒として生きてをりますがパウロに向ふと甚だまぶしくて殆と直視出来ないほどに感じます。また申上げる事と存じますが今は御贈物の御禮だけ申述べます。つい一週間ほど前から此の小屋にも電燈がつくやうになり、この手がミもその燈下で書いて居ります。いつも御健康で御清福のやうにと祈ります。 3月6日夜 高村光太郎 田口弘様

1551

昭和二十四年三月十八日 埼玉縣武州松山町 田口弘様 太田村山口より はがき
おてがみ拝見して小生の書いたものが、赤さん御誕生の翌日に到着したといふ事を知り、たいへんうれしく仕合に感じました。御子さんを得てどんなにか惠みを感じて居られることか、はるかに想望してお祝を申上げます。同封の詩二篇は立派なものです。新鮮で、ほんとの感じに満ちてゐます。

1687

昭和二十五年二月十四日 埼玉縣武州松山町 田口弘様 太田村山口より 封書
昨日小包到着、御惠贈のいろいろのものを見て深く感謝いたしました。小生の足のサイズをご記憶ありて心にかけてこの短靴をお探し下さつた御厚情に心をうたれました、使用中のもの既に破れはてて居りましたので此の春から早速役に立ち、まことにありがたく存じます、十一文半といふ大きさのものは中々入手し難く、困ってゐたところでした、定めし高価價のものと存じ恐縮に存じます、例の松山名物のシソまきも、練乳も山での貴重品にて忝く存じました、山は今年雪ふかく、寒さも中々きびしい事でしたが、或はもう峠を越したかと存ぜられ、小生は元気で居ります、畧儀ながらとりあへず御禮申述べました、二月十四日 高村光太郎 田口弘様 貴下はじめ皆様のご健康をいのります(積雪の重みで電燈は断線、小さな物置小屋はつぶれました、雪の時は郵便物の出し入れが一番不便です、)

1743

昭和二十五年六月十四日 埼玉縣武州松山町 田口弘様 太田村山口より はがき
おてがみと雑誌「風土」といただき拝見しました、若い人達のひたむきな詩心を感じ、むしろ不安を感じるほどで自分の若い頃をおもひ起しました。(いただいた靴を毎日使ってゐます)お察しの通り今畑がいそがしくなり、毎日雨ですが、晴間を見てはやつてゐます、去年は夏に一寸病臥しましたが今年はどうやら無事らしいです、

1851

昭和二十六年三月十四日 埼玉縣武州松山町 田口弘様 太田村山口より はがき
小包忝くいただきました、お乳、ブドー酒、それにあの美味な紫蘇巻一折、感謝いたします、丁度昨日は小生の誕生日だつたので今日もそのつづきのお祝のやうな気がします、今冬は寒さの為か、小生肋間神経痛といふものに引つかかり引籠つてゐましたが、大分よくなつてきました、春暖がくれば治るでせう、御禮までとりあへず、

1940

昭和二十六年九月二十八日 埼玉縣武州松山町 田口弘様 太田村山口より はがき
今度の出版にあたつてふるい切抜などをかして下さつた事を中央公論社からききました。いろいろありがたうございました。別封で「選集」第一回の分を献呈いたしました。ご笑納下さらば幸甚に存じます。

1969

昭和二十六年十二月十五日 埼玉縣武州松山町 田口弘様 太田村山口より はがき
数日前小包落手、名産の紫蘇まきと特大毛糸のクツ下をまことにありがたく存じました。クツ下にはデパートにもないのでいつも不自由するので、大助かりです。今年は十一月に大雪が降りつついて往来社絶しましたが昨今あたたくなつて雪も大分とけました。草野君が此間来訪、一緒に温泉にまゐりました。
昭和二八年1月22日(?)(埼玉縣武州松山町 田口弘様 中野区桃園町四八 中西方
高村光太郎一月廿二日)
おてがみ感謝。先日は小包いただき、お心こもつた丈夫な大型のクツ下に大喜びしました。早速只今使用いたし居り、毎日あたたくやつてゐます。又山へも以前お送り下すつたしそ巻きも頂戴、今日ではまこと尓(に)珍しい味のものとて、少しづつ賞味、いづれも厚くお礼申上げます。仕事の事尓(に)没頭してゐるため、ついお便り書くことさへのびのびと奈(な)ってゐました。仕事の方は着々運んで居ます。先日栗原さんからも、お便りありました。